専徳寺の紹介

寺院について

専徳寺の創建まで

厳島合戦で勝利した毛利元就は、岩国地方を吉川広家に領有させました。広家は16年間岩国を治めましたが、元和2年(1616年)に家督を嫡男の広正に譲り、次男彦次郎と共に玖珂郡通津村本呂尾に隠居しました。 隠居後も広家父子には多くの家臣が随伴し、その多くは浄土真宗西福寺の門徒でした。彼らの信仰心から、新たに通津に浄土真宗の寺院を建てることを願い出ました。広家は高照山の常福寺を改宗し、広正に浄土真宗の寺院建立を依頼しました。 その結果、寛永元年(1624年)に光照寺(後の専徳寺)が開基されました。

専徳寺古文書に曰く
新たに建立の寺なれど、彦次郎君より建立せしめられたる賢慮を慕い、常福寺の檀徒は勿論そのほか通津、保津、青木、黒磯、六呂師等の人民我も我もと光照寺の檀徒となり、たちまち数百軒を数え後年益々繁栄に及びけることこれ広家公御父子通津へ御引越に事おこり、殊に彦次郎君懇志の成ぜしむるところなり

光照寺(後の専徳寺)の誕生翌年、寛永2年(1625年)9月21日に広家は65歳で通津にて逝去しました。彦次郎はその後も通津に留まり、7年間平生邑開作事業に専念しました。 広家親子が専徳寺の開基に弘中氏の血統を迎えた理由は、かつて弘中氏、毛利氏、吉川氏が大内氏の武将として盟友関係にあったためです。陶晴賢の反乱で対立しましたが、深い怨みはありませんでした。広家親子が弘中家の子孫を招いたのは、旧城主の子孫を優遇するためでした。

現在の寺地

現在の寺地は貞享3年(1686年)頃に定められ、岩国藩3代目領主吉川広嘉公が寄進しました。広嘉公は岩国文化の開祖とされ、錦帯橋の創建者でもあります。彼は明国の亡命僧独立禅師に心酔し、禅師が岩国と長崎を往来していた縁もあり、専徳寺第3代澄性師は長崎で一切経を求めて自坊に安置しました。防長両州で一切経を安置する寺はなく、文化人の広嘉公にとって大きな感激でした。広嘉公は専徳寺の寺地と資材を寄進し、それが現在の寺地です。

昭和24年に通津川の改修で寺地の一部提供が求められ、約600平方メートルを提供しました。現在の寺地面積は3,307平方メートルです。

寺地選定に関する伝承があります。吉川家の家臣と寺関係者が適地を求めて海岸線を歩いていた時、1本の老松があり、その松に1羽の鷹が飛んできて頂上で羽を休め、朝日を浴びて金色に輝きました。「瑞兆この上なし」として寺地が決まりました。11世義啓師はこの伝承を絵にし、石川県輪島の名匠治太郎に依頼して、輪島塗金蒔絵の客膳20人前を調整しました。これらの客膳は今も専徳寺に大切に保存されています。

専徳寺の歴代住職

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世代 法名 就職年 退職年 在職年数 備考
開基 善超 万治元年
(1658)
寛文2年
(1662)
5年 1624生。光照寺(のち専徳寺)の開基。隆兼のひ孫。
第2世 西音 寛文2年
(1662)
延宝7年
(1679)
18年 ①善超長男。③澄性の兄。著作に『念仏一貫鈔』がある。
第3世 澄性 延宝7年
(1679)
宝永6年
(1709)
31年 ①善超次男。⑤法純の父。
専徳寺諸世において最も輩出した有功の法師。古文書によると、
「この師博学徳行且つ唱導を能くする...」
第4世 賢了 宝永6年
(1709)
寛延元年
(1748)
40年 ②西音の嫡男。⑥超応の父。寺号を光照寺から専徳寺へと改称。
第5世 法純 寛延元年
(1748)
宝暦7年
(1757)
10年 ③澄性の嫡男。寛保3年(1743)、庫裡改築の大事業を完遂。
第6世 超応 宝暦7年
(1757)
寛政6年
(1794)
38年 ④賢了の嫡男。⑦観礼の父。本堂を再建した。
第7世 観礼 寛政6年
(1794)
享和元年
(1801)
8年 ⑥超応の嫡男。⑧西澄の父。長く京都にあって、一寺を建立した。
第8世 西澄 享和元年
(1801)
天保2年
(1831)
31年 ⑦観礼の次男。⑨観浄の父。『寺史』を編纂。
第9世 観浄 天保2年
(1831)
文久元年
(1861)
31年 ⑧西澄の嫡男。吉川12代領主、経幹公と深く親交。
第10世 智才 文久2年
(1862)
明治41年
(1908)
47年 防府市明覚寺第17世恵眼師の長男。明治39年、本堂内陣の大改装。
第11世 義啓 明治41年
(1908)
昭和31年
(1956)
49年 昭和29年5月、梵鐘を再鋳。
第12世 聰明 昭和31年
(1956)
昭和55年
(1980)
25年 昭和32年、専徳寺報創刊。学校法人日照学園創設。
第13世 英正 昭和55年
(1980)
平成20年
(2008)
29年
第14世 満雄 平成20年
(2008)
現在

境内案内

昭和20年(1945)9月、枕崎台風により通津川は大氾濫し、堤防が決潰、一夜にして専徳寺境内は大量の土砂礫で埋まった。
この台風によって、吉川12代領主経幹公より贈られた、駕籠(殿様駕籠)等々、さまざまな寺宝が失われた。また、その後、寺地決定の機縁となった推定500歳の老松が松食い虫の被害にあって枯死した。
この樹はかって、島地黙雷師が激賞した松である。その枝は数十本の支柱によって支えられ、境内の庭地全体に広がっていた。黙雷師は「天下広しと云えどもかかる老松はすくなし、これを無名のままにして置くに忍びず」として自ら筆を執って、『覆蓋の松(ふくがいのまつ)』と命名した。
今はその石碑だけが残る。

覆蓋の松(石碑)

この後、「覆蓋の松」枯死を嘆いた本呂尾の村重義一氏(昭和29年往生)は永年丹誠を込めて育てた樹齢百歳を超える「鶴翼の松」を寄進された。
境内の樹木管理を委託されていた保津の畝挾勘一氏(昭和50年往生)は親戚知人に呼び掛けて、それぞれ秘蔵の松、梅を寄進することを勧め、賀屋国太郎、畝挾卯一、畝挾藤人、岩本軍一、畝挾富次、沖好繁の諸氏がこれに応じた。

鶴翼の松

明治中期頃、通津に在住した陽明学者、東沢写宅跡(現在、岩国市教育委員会管理)にあったものを明治43年移植したもので、これは宗祖650回忌記念事業の一つであった。
なお、現在ではこの記念碑が建っている。碑面は沢写先生のご子息東正堂氏の筆になるもので「営遠忌貴仏徳遺末世植古木」とある。裏面には施主35人の名と、世話人として、藤重百太郎(本呂尾)、岡田辰五郎(山田)、津秋助太郎(中村)、弘中佐太郎(中村)、森山岩太郎(本町)ら諸氏の名が連ねてある。
この蘇鉄はあまりの大木故、道路上を運搬することができず、通津川の川床を伝って、専徳寺横の堤防にかつぎ上げ、更に竹林を切り開いてようやく境内に運びこんだ。

蘇鉄

大蔵経(一切経)を収納した建物で、吉川3代目領主広嘉公より寄進されたもの。貞享3年(1686)年の建築とある。したがって、専徳寺では最も古い建物となる。

大蔵経(一切経)とは仏教の経律論を内容とする基本的叢書であり、中国を原典とする。当時の印刷は木版刷であったため、書物にすると膨大な数量になる。古文書に、「この大蔵経を安置するもの防長においてこれなし」との記録があるので、いかに貴重品であったかがうかがわれる。
経蔵とはこのような大蔵経を収納した仏教図書館であるが、単なる書蔵庫たるのみでなく、ここは地方の学僧達の学問所としての役割を果たしていたようである。

妻木直良編『真宗全書』第18巻には『選択集通津録』(深諦院慧雲)なるものがあり、それらには、「安永已亥(師、時に五十歳)の夏、通津専徳寺にて講演せる筆録なり」とある。

経蔵の規模は土蔵造りで面積は48平方メートルである。戸口に「転法輪」(写真)なる扁額が掲げてある。「転法輪」とは仏教用語で、仏法は戦車の如く一切の衆生の間を回転して人心の迷いを破砕するとの意味である。
経蔵の屋内は地下室風で、土間の上に板敷があり、その上に大蔵経が積み上げてあったが、昭和20年の水害で、経蔵の蔵書および貴重な法物、記録等大部分が流失した。

平成21年より納骨堂。

経蔵の前に存在感を持つこの松樹。その年代は不詳であるが、横の石灯籠に元禄15年(1702)とあるのでその年代のものと推測される。

経蔵(納骨堂)と老松樹木

昭和29年(1954)年の新築である。以前のものは昭和2年の水害で、土台が崩れたため解体された。設計は市内横山の中沢五橋氏。氏は、自らの発想で設計に取り組み、音響効果に主眼を置いた個性ある鉄筋コンクリート造りにし、中央を空洞化した。
楼屋の大工頭は湯脇徳太郎老人。ひたむきな仕事ぶりが寺族の心に残ったという。

鐘楼

南岩国町在住の松村健一氏が寄進されたもの。
氏はかって満州の開拓員であった。希望の大地での生活は昭和20年8月15日をもって一変。ソ連兵と現地人に追われ山野をさまよい一家は離散。3人の愛児は栄養失調のため幼い生命を断った。「今もそのことを思えば胸の中がかきむしられる」と氏は述懐した。そして、たくましき行脚姿の「しんらんさま」を拝したいと発願された。
毎年5月、宗祖降誕会には、幼稚園児がそれぞれ家から「花一本」を持ち寄って、御像の前に供えている。

宗祖聖人銅像

弘中氏は大内氏の部将として、岩国地方に勢威を張っていたが、大内氏の滅亡により陶晴賢と共に厳島において毛利元就と対戦することになった。弘中氏と毛利氏と吉川氏はかって芸備の山野にあって盟友の好誼があり、そのため、厳島合戦に臨む三河守の心境には毛利氏討伐という意欲よりは、時の流れを感じる悲壮な出陣であったと郷土史研究家はいう。

弘中三河守、弘治元年(1555)10月3日、厳島竜ヶ馬場において次男とともに討死。遺体は岩国市今津町大応寺に埋葬された。ここに弘中氏の時代が終わる。弘中三河守隆包、弘中氏岩国城最後の城主となった。

厳島合戦に勝利した毛利元就は一族の吉川広家を、弘中氏に代わって岩国地方を領有させた。広家公は、隠居後、通津の地に浄土真宗寺院の建立を願い出た。その願いが受け入れられ、寛永元年(1624)年、光照寺(のち専徳寺)が誕生。
開基には、高森正蓮寺開基了善法師の三男善超師を迎えられた。この善超師こそが、弘中三河守の曾孫となる人物である。

昭和16年(1941)10月、広島証券会社社長松井礼蔵氏が三河守を顕彰すべしとして、ゆかりの専徳寺へ墓を移築した。
この移築に際し、「当初は大規模のものが計画され、傍らに三河守についての碑文も用意されていたが、戦時中のため資材、技術者共に得られず、止む負えなく断念せざるを得なかった。」(弘中朗夫談)

弘中三河守の墓

本堂御拝前に「洗耳」(せんに)の扁額が掲げられている手水鉢がある。これは明治42年(1909)宗祖六百五十回忌記念事業として保津村門徒中が寄進したものである。

手水鉢

石橋です。渡った先には経蔵があります。
昔は、ここに大きな池があり、石橋はその時の名残です。

石橋と燈篭

現在は月に1度掲示。
トップページにその月の掲示伝道の言葉を見ることができます。
≪ 掲示板 ≫

掲示伝道の看板

現在では砂利がしきつめてある駐車場だが、以前は、普通のなんの舗装もされてない普通の土の駐車場だった。
その為、当時は風が強い日などは砂が飛んできて、本堂の板間がよく砂だらけになってしまっていた。

駐車場

「15畳」とも呼ばれています。法事や法座でのお斎の場に使われたり、様々な活動の際に利用されています。

中庭

かつてはお斎を作る「土間」でしたが、現在はご門徒の交流の場になっています。

中庭

外陣

外陣の様子。お聴聞をする場所です。

外陣の様子

正面。浄土真宗のご本尊は阿弥陀如来です。
※本堂に入ったらまずは正面で手を合わせてお念仏しましょう。

正面

欄間。見えずらいのですが、龍と虎とウサギが描かれています。
かつて新しく欄間が塗り直されるまで、ここに何が描かれているのかがわかりませんでした。
なぜ龍と虎とウサギが彫ってあるのか。不明です。干支と関係するのでしょうか。

外陣中央天井画

欄間には龍と虎、ウサギが描かれています。
以前は塗り直しのため、そのデザインは不明でしたが、干支との関連性が指摘されています。この彫刻が持つ意味は謎に包まれています。

欄間

右余間の屏風。中央にあるのは錦帯橋です。

右余間の屏風

左余間の屏風。左上にあるのは、専徳寺です。 なおお寺では、阿弥陀仏を中心にするので、われわれと左右の言い方が逆になります。

左余間の屏風

本堂の左余間の屏風には、専徳寺が描かれています。
そして、この専徳寺は山の上ではなく村の中に描かれています。
この構図は、故岡迫総代長の強い希望でした。 岡迫総代長には「専徳寺は山の上に建っているような寺ではない。村の中にあり、人々とともに在る寺だ」という信念がありました。
一つ一つの荘厳には意味があります。 200年後の人にも岡迫総代長の信念が伝わってほしいと思います。 そして、そのために仏事にいそしむ日々を送ります。

本堂の左余間の屏風

内陣

中央、御本尊・阿弥陀如来像

御本尊・阿弥陀如来像

親鸞聖人。浄土真宗を開かれた方です。

親鸞聖人

蓮如上人。八代門主であり、室町時代の中興の祖です。

蓮如上人

聖徳太子

聖徳太子

七高僧

七高僧

内陣壁画 山越え飛天図(左)

内陣壁画 山越え飛天図(左)

内陣壁画 山越え飛天図(右)

内陣壁画 山越え飛天図(右)

後門 普賢菩薩と象歩。

後門 普賢菩薩と象歩