さらさらと

さらさらと

【もののあはれ】

 

10月22日は30歳でこの世を去った山口出身の詩人、中原中也(1907~1937)の命日です。

今年は90回忌です。

 

今年8月、山口市湯田温泉にある中原中也記念館に初めて立ち寄りました。

子ども時代の写真や、波瀾万丈の人生が紹介されていました。

また詩の奥深さを知るたくさんの解説本を読むことができました。

10年かかった詩集『山羊の歌』出版までの軌跡が、

詳しく展示されていたのが印象的でした。

 

展示の最後あたり、こんな言葉が。

 

「詩とは、所詮、もののあはれである」

 

調べると『詩と其の伝統』で中也が述べていました。

 

「此の世の中から、もののあはれを除いたら、あとはもう意味もない退屈、従つて憔燥が残るばかりであらう。」
「幸福の実質といふのは、もののあはれである。」

 

「もののあはれ」とは“物の憐れみ”、でしょうか。

自然の移り変わりや人生のはかなさに触れた時にわき上がる感情。
しみじみとした深い情緒や哀愁です。

 

代表作の「汚れっちまった悲しみに........」。

 

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに

今日も風さえ吹きすぎる

 

汚れっちまった悲しみは

たとえば狐の革裘

汚れっちまった悲しみは

小雪のかかってちぢこまる

 

汚れっちまった悲しみは

なに望むなく願うなく

汚れっちまった悲しみは

倦怠のうちに死を夢む

 

汚れっちまった悲しみに

いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……(※現代語にかえています)

 

七五調で何度も出てくる「汚れっちまった……」。

中也らしい心地よいリズムから表現された「もののあはれ」、哀愁を感じる詩です。

 

中也はこの感性を大切に詩を作っていたようです。

 

【諸行無常】

 

幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました

 

幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました(「サーカス」)

 

繰り返される人々の争いの歴史、死。
そのためにおこる生活の厳しさは、
いやがおうでも人生の意味を問うてきます。

 

「詩」は言偏に寺と書きますが、
お寺、仏教も出発点は「もののあはれ」です。

 

仏教は「諸行無常」を言います。

「この世のあらゆるもの(形あるもの、形ないもの、人の感情や命など)は、常に変化し続ける。永遠に変らないものはない。」

これは本来、苦しみの原因である煩悩、物事への執着から離れる事を教える言葉ですが、

しかし実際、「人はいつか死んでいかなければならない。別れを経験しなければならない」というはかなさ、
情感を受け止める言葉にもなっています。

 

そんな「もののあはれ」の答えが仏教であり仏道です。

「仏の教え」「仏となる教え」である仏教。

迷いをこえた最高のさとりの境地を目的とします。

 

【摂取不捨】

 

お念仏の道は、そんな仏道の一つですが、

自らの行をもって仏となる「自力修行の道」に対し、

自らの行は始めから、全くあてにしません。

そういう意味で修行という言葉を使いません。

 

浄土真宗は「摂取不捨(摂取不捨)」を言います。

仏は、ある意味、仏教徒であるにも関らず、

仏の道から逃げようとしている凡夫の私を、

おいかけつかまえ離さず、必ず浄土で仏とすると誓い、

その事を十劫の昔に実行されています。

たよりとなる行、その功徳は全て、仏の側にあります。

 

仏の心、それを本願から聞き、

仏の行、それを他力、また他力回向(たりきえこう)といただく。

如来の他力をしみじみと感じ、たよりとするだけです。

聞いて、受け取り、いただき、味わい、報恩の思いを行ずるばかりです。

 

真宗の僧侶は、

山などの修行しやすい特別な空間で戒律を守って過ごすという事はしません。

一般の人と同じ生活の中で、ただ念仏し、

あとは時間があれば仏恩報謝の清掃、勤行、学問をするばかりなのです。

いつも心のよりどころは、

如来の本願のはたらき「他力本願」であり、

「積善」や「修行」、「祈願」という行為から距離をおいています。

凡夫(おのれ)の自力のはからい(他力の疑い)というものの根強さを嫌という程知っています。

 

【さらさらと】

 

ところで、中原中也に「一つのメルヘン」という詩があります。

 

秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

 

陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

 

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

 

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

 

「さらさらと」が心地よい詩です。

 

この「さらさらと」という言葉で思い出すのが、

お念仏の道を喜んだ広島出身の甲斐和里子(1868-1962)さんの次の短歌です。

 

岩もあり 木の根もあれど さらさらと 
 たださらさらと 水の流るる

 

一見すると、自然の風景をただ詠んだものですが、

そこにお念仏生活の妙味があらわされています。

 

「一つのメルヘン」の表現をかりてみます。

 

水もなく、小石ばかりの河原である私の心でした。

そこに「さらさら」と弥陀の光が射しています。

私の煩悩をまるで問題とせず「さらさらと」いたり届いています。

「我にまかせよ」と音を奏でています。

 

そんな私の心の上に、信心という美しい蝶が止まり、

淡く、そしてくっきりとした影が映ります。

蝶はいつのまにか見えなくなっていますが、

今まで小石ばかりであった河原に水が流れ始めました。

 

岩もあり 木の根もあれど さらさらと 
 たださらさらと 水の流るる

 

煩悩まみれのまま、仏と共に歩む人生が開けています。

終わる事のない岩や木の根といった苦悩も、

「そうでした、そうでした」と、さらさらと流れるように歩んでいけます。

何か特別な祈祷や儀式に、さらさら用事のない人生です。

 

甲斐和里子さんが中原中也の詩の影響をうけたかは分かりませんが、

そんな二人の作品から、

お念仏のはたらきを、

そしてお念仏で歩む人生模様を思う、

秋の夜のです。

 

(おわり)

カテゴリー:法話

投稿日:2026年10月15日