咲き誇る私

咲き誇る私

【主題歌】

 

9月28日から始まったNHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)「ブラッサム」は、
山口県岩国出身の作家「宇野千代さん」をモデルにした番組です。
多くの苦難を乗り越え、自分を貫き、明治から昭和の時代を生き抜かれました。

 

そんな「ブラッサム」の主題歌に関する番組が先日放映されました。
『「ブラッサム」主題歌ができるまで』

主演の石橋静河さんと、主題歌「咲き誇れ」を作ったYOASOBIさんが対談する番組でした。

 

「小説を音楽にするユニット」というYOASOBI。
朝の連続テレビ小説の主題歌は長年の目標だったそうです。

楽曲を作るAYASEさんはモデルの宇野千代さんと同じ山口県出身。
「人生のターニングポイントを踏み越えた楽曲」と、
かなり気合いを入れて作られたそうです。

 

そんな主題歌の映像を日本屈指のクリエイターが制作しました。
宇野千代さんが言った「花坂婆さんになりたい」をテーマに、
桜をふんだんに使った映像。
一切照明を使わない光と影のコントラスト。
現代にも通じる「かわいい」宇野千代さん。
まるで本物が踊っているようなダンス。

 

撮影の後日、YOASOBIにその映像が届きました。

主題歌のレコーディング前でした。

 

「めちゃめちゃ桜すごい。」
「すばらしい。」
「ぐっときちゃいました。」
「ぐっときたね。」
「しかも……(葉野珠が)ひょう依されてるね」
「ひょう依されてるね」

 

そしてレコーディング開始。

歌手のIKURAさんは「200%の力」で歌いあげ、

こうして「125回、毎朝見るものを作ろう」という石橋静河さんの思いのつまった「ブラッサム」主題歌はできたのでした。

 

【たのむ】

 

いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。
ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。
これを他力といふ。
ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品)といへり。

曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上)といへり。
仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。
(『教行信証』行巻)

 

エクソシスト等のホラー映画ではよく使われる「ひょう依」。

「ひょう」は「憑」です。

相手(神や悪魔)が心の中に入って現れる、

「取り憑く」という意味で使われる言葉です。

 

しかし元々「憑」は「たのむ」という意味です。
また関連した言葉に「依憑」があります。
この場合、「たのみとしてたよる」といった意味があります。

 

よく似た現代の言葉が「頼む」「依頼」です。
こちらは同じ「たのむ」でも「お願いする」という意味です。

 

仏教・浄土真宗の場合、「たのむ」とは「憑む」です。
こちらの願い事を依頼するのではなく、
経典の言葉に、仏のはたらきに、たよるのです。

 

「すべからく他力を憑むべきがゆゑに、往生浄土を説く。」
「大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、」

 

それはまるで仏が私に「憑依」されているかのように、
阿弥陀さまの願いをそのまま心でいただき、その通りに行動する事です。

 

「あなたをたすける」とする仏さま。
「たすかる私」といただき、
「ありがとうございます」と行動するばかりです。
その中心となる行動が「念仏」です。

 

【自灯明・法灯明】

 

釈尊の遺言とされた言葉に「自灯明・法灯明」があります。

 

「自灯明」とは、
「自らを灯火とし、自らをよりどころとして、
他をよりどころとする事なかれ。」

 

仏教という教えは、運命・宿命から距離を置きます。
徹底的に「まず自分は何を思い、何を言い、何をするか」です。
そういう意味で「あるがまま」。

 

また仏教という宗教は、そういう意味で、「押しつけない」教えです。
輪廻転生を信じ、「だから安心」と語る方がいます。
反対に「死んだらおしまい」と言い、
「だから何も信じない」と語る方もご近所にいます。
それぞれたよりにする因縁があるのでしょう。
否定はしません、その人の人生です。

 

ただそんな「あるがまま」の私が、
得てして「わがまま」に陥るのです。

 

故に釈尊は「法灯明」と言われました。
「法を灯火とし、法をよりどころとして、他のをよりどころとするな。」
決して変らない、永遠の真実をたよれというのです。

 

たよりとなる法をもとめて念仏にであった親鸞聖人。
この弥陀の法は、
私を完全にあずける事のできるもの、
「憑む」となり得るものでした。

 

人生の晩年、臨終。

「輪廻転生を信じる」「死後の世界は信じない」と言っても、
条件がかわると不安でゆれ動く私の心。
そうです、私たちは一人で生きてきたわけではないからです。
親がいて、恩人がいて、知人がいて。
苦楽をともにした他者の思いにふれた時、
「このまま別れて、忘れ去ってゆくのか」と必ず立ち止まります。
それが人間性ある私たちです。

自分自身を貫き通すのは難しいと思います。

 

その思いを受け止める仏願。
念仏となって、本願力となって、届けられています。

 

心の上に馬と書く「憑」。
如来という馬に乗りうつります。

 

自らを灯火とし、

日々、自分らしく生きる私。

ですが人生そのものは、法を灯火に、法をたよりにしています。

その構図は、私は無力の0%。

仏力が2人分、200%の行動をされているのです。

運命という見えない話ではないのです。

 

(おわり)

カテゴリー:法話

投稿日:2026年11月07日