凡夫と凡夫
【花梨】
昔、お世話になっていた某先生から法話の本をいただきました。
タイトルが「花梨」。
「ありがとうございます。『花梨』ですか、良い名前ですね。」
すると先生が、苦笑いしながら、おっしゃいました。
「ありがという。でもタイトルは『はななし』ではなく『かりん』と読むのだけどね。」
……大変勉強になりました。
【芸艸堂】
先月、僧侶研修会で京都の美術専門の出版社「芸艸堂」に行きました。
摺師さんによる葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」の製作を見学。
淡々と版木に絵の具を塗り、和紙に色を写していきます。
何枚もの版木を使って色を重ねていくのに、寸分の狂いもありません。
すばらしい技でした。
ところでこの社名「芸艸堂」。
「うんそうどう」と読みます。
社長に社名の由来をたずねると、
「芸艸」とは富岡鉄斎による命名だそうで、
「芸艸」とはミカン科の多年草の名なのだそうです。
「しかし普通読み方としては『げいそう』ですよね?」
「いえ違います。
芸は本来「うん」と読むのです。
ところが戦後に「藝(げい)」の新字体として使われるようになり、
そちらの影響で「芸(げい)」になったのです。
辞典で調べてみました。
確かに「芸」と「芸(藝)」は違う漢字とありました。
「芸(藝)」は「植える。技。」といった意味、
「芸」は「防虫に使われる多年生草本。草を刈る」という意味でした。
……大変勉強になりました。
【生死】
仏教で重要な言葉が「生死」です。
「せいし」でなく「しょうじ」と読みます。
「せいし」ならば「生きるか死ぬか」です。
「しょうじ」とは「生まれ変わり死に変わる迷いの世界」。
煩悩にそまり苦悩しつづける凡夫の私の境涯です。
この生死(しょうじ)が仏教の根本問題であり、
この生死の苦悩から解放される道を仏道といいます。
生死(せいし)と生死(しょうじ)、似て非なるものです。
【清浄】
もう一つ仏教用語で誤読される言葉の一つが「清浄」。
「しょうじょう」と読みます。
一般的には「せいじょう」です。
「空気清浄機」は「くうきせいじょうき」、
「清浄無垢」で「せいじょうむく」です。
余談ですが、知り合いの「清誓寺」さん。
本来は「しょうせいじ」だったそうです。
しかしこの「清」を「しょう」とはなかなか読めません。
皆、聞き間違えて「せいしょうじ」と。
とうとうお寺の方が根負けして、
「もう『せいしょうじ』いく!」と宣言されたとか。
……「誓」はさすがに「しょう」とは読めませんが。
仏教でいう「清浄」とは、物の汚れはもとより、
空気がきれいとか、心が一途で純粋という意味ではありません。
いかなる煩悩の汚れにそまっていない仏心の事です。
食欲、睡眠欲、性欲、
さらに名誉欲や財産欲。
果てしない貪欲(とんよく)の煩悩に悩み苦しむ凡夫の私たちです。
心が煩悩に振り悩まされないように、清浄にしたいと志す仏道ですが、
他力の仏道は逆でした。
清浄にせんとする弥陀の名号を聞く道です。
死ぬが死ぬまで煩悩に振り回される私でした。
その私を、
死ぬが死ぬまで清浄の光で照り守られる仏さま。
それは安堵の心です。
凡夫であることに気づかされ、
そんな私がそのままで良いと知らされます。
何かしら解放されたような安心感です。
欲にまみれ、失敗つづけ、迷い続ける私の人生ですが、
「人間だから仕方ない」と開き直るでなく、
「何のための人生か」と、問い嘆く事なく、
その身そのまま、
「ありがとうございます」と、
死ぬが死ぬまでご恩に思いを馳せられる身に、
「南無阿弥陀仏」と口に出す人生に意味が変わるのです。
芸と芸(藝)は似て非なるものです。
同様に、他力のお念仏をいただく凡夫の人生は、
凡夫と凡夫、似て非なるものです。
迷いの境涯の「凡夫」と、
迷いの境涯なれど、
今生の命終える時に安養の浄土で仏とするべく、
今まさに如来さまが煩悩を刈り込み、仏智を植え込み続けておられる事を聞き喜ぶ「凡夫」です。
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凡夫 私が凡夫であるという事が (鈴木章子(あやこ)『癌告知を受けて』より。) (普賢保之『花梨』(2004年)41頁) |
(おわり)
カテゴリー:法話
投稿日:2026年02月15日