訳せない言葉

訳せない言葉

【自問自答】

 

先日、ある新聞のコラムに、
金原ひとみさんの近著の表紙に巻かれた帯の文句が紹介されていました。
「この物語は、中年版『君たちはどう生きるか』です。」

 

「どう生きるか」は、
中年ならば「どう生きてきたのか」、
そんな自問自答にもなり得るかもしれません。
とても感じ入るものがある、との事。

 

コラムは続いて吉田拓郎さんの話に。
先日、80歳で7年ぶりにステージに立ったそうです。
自分自身、そして見聞きする者全てに、
「君たちはどう生きるか」、
「君たちはどう生きてきたのか」、
そう問いかける傘寿ライブ。

 

コラムは最後、金原さんの倍近い年齢、
80代の坂に足を踏み入れた拓郎さんの境地を思い、
こんな言葉で締めくくっていました。

 

「口幅ったいことを申しあげるようだが、
自問自答の重心は『どう生かされているか』に移っていきそうな気もする」

 

【自灯明 法灯明】

 

私たちは問いを大切にします。
若い頃は、
「どう生きるのか」。
中年になって、
「どう生きてきたのか」、
そう問いをかえることもできるでしょう。
さらに歳を重ねれば、
「どう生かされているのか」。
そんな問いにもなろうかと思います。

 

コラムを読みながら、
お釈迦さまの最後の文句「自灯明・法灯明」を思い出しました。

 

自らを灯火とせよ、そして法を灯火とせよ。
少し言いかえれば、
自らを大切にせよ、
それはつまり自らを支えている法(おみのり)に気づけよ。

 

本当の意味で「どう生きるのか」という事は、
「どう生かされているのか」と問う事とセットです。
老若に関係ないのです。

 

周りのたくさんの者とつながり、支えられて生きる私です。
感謝しかでてこない……という風にはいきません。
油断するとこの心、「自己中心的に生きる」欲望の道を選んでいます。
……油断どころか、意識してもそうかもしれません。

 

他者の恩恵を忘れ、他者の苦しみ耳を塞ぎます。
仏の道どころか、一歩間違えば餓鬼畜生の道、地獄・修羅の道と言われても否定できません。

 

お釈迦さまは、
そんな凡夫の私のための法として、
法蔵菩薩が五劫思惟の末に本願を建て、
南無阿弥陀仏の名号をもって救うと重ねて誓い、
兆載永劫の果てに阿弥陀仏、
無量光・無量寿の仏になったという物語を説かれました。
それが『仏説無量寿経』というお経です。
(専門用語で「弥陀法」ともいったりします。)

 

「ものの逃ぐるを追はえとるなり」とコメントされた親鸞聖人。
どこまでも仏の道と真逆の方向に歩もうとする煩悩まみれの私を案じ、
自身の仏の道を後回しにしてまで私にいたり、
「南無阿弥陀仏」の名号をもって寄り添い離れないという、
そんな仏の心、大悲心、願心(がんしん)、救いの心をお経からくみ取り、
多くの先師から受け継ぎました。

 

仏の願いが力となって私の心にいたって信心となり、
その信心が因となって、間違いなく浄土でさとりの仏となる道です。
生涯煩悩の消えない心の私であるにも関らず、
「私は仏教徒です、門信徒です、仏弟子です」と胸をはって歩める道(結果があるからです)。
それが親鸞聖人が導かれる「南無阿弥陀仏」の道です。

 

【訳せない言葉】

 

先日始まった、あるドラマ。
主人公はアメリカ帰りの天才法医学者。
医師にして実際の殺人事件の現場に行き捜査に協力するのが仕事です。

 

そんなドラマのラストシーンでした。
息子の事故を受け止められない母親に思わず話しかけ説得したヒロイン。
しかし後で、そんな自分のやった行為に悩んでいました。

 

「私の今日の判断は一歩間違えば、ご遺族の感情をさかなでするものでした。」

 

すると主人公は言いました。

 

「アメリカでは、ご遺体のことをラブドワンといいます。」
「ラブドワン(LOVED ONE)? ……誰かにとって大切な人だと、という意味ですか?」
「この言葉は、訳せません。」
「え?」
「現場だけの言葉であり、自分だけの言葉でもある。」
「自分だけの言葉?」
「はい。この言葉の意味は、自分でしかきめえることができません。
今日の桐生さんの判断は、あなたなりに、
ラブドワンと向き合った結果だったんじゃないですか?」
(ドラマ「LOVED ONE」エピソード1 水深40cmで溺れた遺体))

 

【訳せない名前】

 

南無阿弥陀仏の名号。
訳せば「阿弥陀仏に南無する」、無量寿仏に帰命するという意味ですが、
でも訳さず「南無阿弥陀仏」と称えます。
それは私の命の現場の言葉であり、自分だけの言葉だからです。
訳したら意味がわかるという言葉ではないのです。

 

「これまで私はどう生きてきたのか。
そして残りの人生、どう生きるのか。」

 

真剣に自分と向き合う中で、
それを可能とする法が南無阿弥陀仏です。

 

見渡せば 如来大悲の風景か
 

「どう生かされているのか。」
その答えにであう時、
おのずと氷解する人生の答えがあります。

 

(おわり)

カテゴリー:法話

投稿日:2026年04月15日