業報と報恩
【宇宙からの意志】
昔、ある落語家がこんな話をしていました。
友人がある宗教を始めたのだそうです。
それは物事はすべて「宇宙の意志」と考えるというものでした。
自分がする行動も、他人の行動も、すべて宇宙の意志。
失敗しても、何があっても、宇宙の意志と納得するのです。
そこで落語家はすこしいじわるを言いました。
「ほんなら、ここで俺がお前をポカッと殴るよな。それは俺のせいではなく、宇宙の意志ということになるわな?」
すると友人は、
「そうや。お前の意志やない。でもな、その後、俺がお前をポカポカッとやりかえすのも、宇宙の意志やからな。」
どうみてもそこには友人の復讐の意志が感じられます。
そんなマクラ(前説)の後の落語は「天災」……だったかは忘れました。
【業の宗教】
仏教は業(ごう)の宗教です。
多くの宗教は「運命」を説きますが、仏教は「運命」論に近づきません。
「運が悪い」とみるのではなく、「私の行動(業)に問題があった」とみる宿業論を立場とします。
生まれによって、いやしい人となるのではない。
生まれによって、バラモンとなるのではない。
行為によっていやしい人となり、
行為によってバラモンともなる。
善悪の業因によって苦楽の果報が現れます。
これを「業報」(ごうほう)といいます。
運命は他律的、業は自律的です。
自律をうながし、他でもなくこの「私」が苦悩をこえる道、さとりに到達する道が仏教です。
そんな仏教の中、親鸞聖人が歩んだのが浄土真宗という道です。
阿弥陀様の救済の道。
他力の道です。
そして、実はそのポイントは「私」です。
【遺言書】
これはたとえ話です。
ある日、Nという名の方が突然やってきました。
90を過ぎた老齢の女性で、私の遠い親戚、現在海外に住んでおられる方。
たまたま用事で日本に来て、故郷が懐かしいとわが家に寄られました。
一応血縁の方なのでお茶を出すと、お話が好きなようで、自分の生いたちや現在の状況についてベラベラ話されます。
若い頃からいろんな活動に参加し、苦労して会社を立ち上げ、今も現役の会長職をされているとか。
「若い頃からためた調度品がいっぱいあるのよ。」
「○○駅前のビル、私がオーナーなの。」
「あそこの土地は私が貸してるのよ」等々。
「フーン、そうですか」と相づちしながら聞き流していました。
それから半年後、Nさんから「○月○日、また来ます」との手紙が来ました。
「やれやれ仕方ない」と再びNさんを迎えて、お茶を出しながら、また自慢話が始まるのかと思いきや、
「実はそろそろ遺言書を作成しようと思うのだけど、私、他に親戚がいないから前回お話した土地やビル、全部あなたにあげるわね。」
「フーン、そうですか、全部私にねぇ………………ちょっと待って、もう一回言ってください。
どこのビルとどこの土地ですって!
どこにあるのですか? どのくらいの広さ? いつですか?
私は何をすれば? きちんと教えてください!!!」
目が血走っている私がいます。
……たとえ話です。
それまでは他人の財産の話ですから全然関心ありませんでしたが、
それがもらえるとなると途端に関心が高まります。
【私一人のため】
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり(『歎異抄』後序)
この阿弥陀如来の救済の物語は、私が何をなすべきかという自力の話ではありません。
故に他力の話ですが、しかし仏教ですから自律的、私が行動しなければ仏教ではありません。
どう行動するか。
それは「私事(わたくしごと)」と聞くのです。
お経の話、弥陀のお浄土の話は、とかく無関心になりがちですが、
それはよくよく聞いてみると、
そのさとりの世界すべて、私にゆずるための功徳、恩徳の話です。
いやがおうでも関心が高まります。
そして「私のためでした」「ご恩をいただきました」と関心できた心、それをある意味信心といいます。
そしてその恩を受けた上での行動、恩に報いる感謝の思い、それを報恩といいます。
私の業報を問題とするのではなく、
仏の業報を私事といただく、すなわち報恩を問題とします。
知恩報徳(恩を知り徳を報ず)のが浄土真宗の大きなテーマです。
(おわり)
カテゴリー:法話
投稿日:2026年07月14日