本願力のめぐみゆえ
【親鸞が甦る】
今月5月9日、シンフォニア岩国にて
「作曲家平田聖子の世界 親鸞が音楽で現代に甦る。」コンサートが開催されました。
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親鸞聖人の「本願力に遇えた慶び」を、旋律、和音の流れ、厚み、音型、リズムなどの全てを総動員して表現しています。 阿弥陀如来を讃え、どの曲にも「南無阿弥陀仏」が多様な旋律にのって歌われます、全20作品。ご来場お待ちしております(^^♪ (平田聖子氏より) |
照明やスピーカにもこだわりがあり、プロの声楽家の素晴らしい歌声を聞かせてもらいました。
【合唱練習】
縁あって第一部の合唱に参加しました。
久しぶりの合唱の練習でした。
同じ組内のN先生より丁寧に指導していただきました。
「横隔膜の意識を忘れず!」
「のどではなく、軟口蓋を通るように声を出しましょう!!」
「ここは横隔膜を忘れてるときちっと音がはまりません!!!」
おかげで読経中も横隔膜と軟口蓋を意識できるようになりました。
さらに山口別院にて平田聖子先生から直接指導も受けました。
「これは『親鸞聖人のオペラ』です。」
「ここはファンファーレ!」
「親鸞聖人の言葉を味わいましょう。助詞の出し方に気をつけて。」
「たたみかけて!」
「このフォルテは気持ちのフォルテ。十劫より喚んで喚んで喚んで……とうとう本願の名号が出た! そんな気持ちで歌ってください。」
「感動のフォルティッシモです!」
「アミダパンチ!」
心に残るたくさんのご指導をいただきました。
また、和讃「弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」の曲では、
こんなお話も。
「これは親鸞さまのとても大切な和讃ですね。……
この「憶念の心つねにして」の「つね」は「常」ではありません。
常は「大悲無倦常照我」の「常」です。
阿弥陀様のお慈悲は途切れることなく常に私を照らします。
でも凡夫の私ですから、如来さまへの思いは時々途切れます。
「常」でなく「恒」です。
『一念多念文意』にあります。
如来さまのお慈悲に嬉しさ一杯の気持ちと、そうは言っても恥ずかしながら時には忘れてしまう私。
そんな心模様をこの「憶念の心つねにして」の部分では表現しています。」
『一念多念文意』を開くと冒頭には次のようにあります。
| 「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前」(礼讃)といふは、「恒」は、つねにといふ、「願」はねがふといふなり。いまつねにといふは、たえぬこころなり、をりにしたがうて、ときどきもねがへといふなり。いまつねにといふは、常の義にはあらず。常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり、ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを常といふなり。 |
| (現代語訳:「恒」は「つねに」ということであり、「願」は「ねがう」ということである。ここで「つねに」というのは、絶えることがないという意味であるが、折にふれ、その時々に願えというのである。だからここで「つねに」というのは、「常」の意味ではない。「常」というのは、「つねに」ということであるが、絶え間なく続けよという意味である。すなわち、どのような時も絶えることがなく、またどのような所も避けたり嫌ったりすることがないのを「常」というのである。) |
しっかりと聖人のお心を味わいながら作曲される方だと感心しました。
【本願力のめぐみにて】
公演会では最後に「本願力のめぐみにて」という曲を会場全体で合唱しました。
この曲は親鸞聖人の直接の言葉ではなく、
「正信偈」の意訳「しんじんのうた」の「天親讃」を歌詞にしたものです。
広由本願力回向 本願力のめぐみゆえ
為度群生彰一心 ただ一心の救いかな
帰入功徳大宝海 仏のみ名に帰してこそ
必獲入大会衆数 浄土の聖衆(ひと)の数に入れ
得至蓮華蔵世界 蓮華(はちす)の国に生まれては
即証法性之常楽 真如のさとりひらくなり
遊煩悩林現神通 生死の園にかえりきて
入生死園示応化 まよえる人を救うなり
実はここに浄土真宗の特徴、
「現生正定聚」「往生即成仏」「還相回向」が凝縮してありました。
そのことが意訳にはよくあらわれています。
新たな発見でした。
(詳しいことは藤澤信照氏の『仏教讃歌「本願力のめぐみゆえ」解説と味わい』をご覧ください。
余談ですが、この歌にであってから、私の中で「礼讃文」が次のように変化してしまいました。
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原文 |
コンサート以降 |
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われ今幸に |
われ今幸に |
令和8年5月9日。
親鸞聖人853歳のご誕生をご縁とした尊い時間でした。
【おまけ:N響】
(おわり)
カテゴリー:法話
投稿日:2026年05月16日

