雨×セミ×不思議

雨×セミ×不思議

【雨中のセミ】

 

久しぶりの雨でした。
お寺参りのため、本堂の裏側で雨音を来ながら参詣の方を待っていました。

ふと耳をすますとセミの鳴き声が聞こえます。
一瞬「雨の中をよくもまあ大変なことで……」と思いつつ、ハッとしました。

 

セミの地上でのいのちは一週間(実際は違うようですが)
雨だから鳴くのは明日にしようなんて言っておられません。
そんな時間はありません。

 

私たちも同様かもしれません。
「暑いね」「寒いね」「雨だね」といいながら、身体の不調に、しだいに終活が頭をよぎる身に。
時間はありません。
「人生はむなしい・・・」
最後に泣いて終わるのではなく、
「ナモアミダブツ、感謝、感謝です」と、
最後まで鳴いて終わる道を歩みたいものです。

 

【不思議】

 

雨といえば金子みすゞにこんな詩があります。

 

わたしは不思議でたまらない

黒い雲から降る雨が

銀に光っていることが(金子みすゞ)

 

わたしは不思議でたまらない

青いクワの葉食べている

蚕が白くなることが

 

わたしは不思議でたまらない

たれもいじらぬ夕顔が

一人でパラリと開くのが

 

わたしは不思議でたまらない

たれに聞いても笑ってて

あたりまえだということが

 

「不思議」という詩です。

 

世間では「雨がふる」「蚕が葉っぱを食べている」「夕顔がひらいた」で終わりです。
しかしこの詩は、その事を知識で語っているのではなく、
現実にその光景をながめ、
「不思議」という感動を味わっています。
理科でいう所の答えが知りたいのではないのです。

この詩を通して、
何気ない日常が感動で満ちあふれている事を知らされます。

 

【光雲】

 

親鸞聖人は仏さまの教えを「浄土真宗」として、
たくさんの和讃で教えてくださいました。

 

光雲無碍如虚空
一切の有碍にさはりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議を帰命せよ

 

元々は今年生誕1550年の曇鸞大師作、『讃阿弥陀仏偈』を和讃にしたものです。
阿弥陀如来の光を讃えたものです。

 

弥陀の光は雲のごとく何物にもさえぎられることはない、
そんな「無礙光」の特性をたたえています。

 

「雲は壁にさえぎられる」ではないのです。
雲からふる雨はどのようなものも潤沢にします。

 

如来のはたらきはどこまでも満ち満ちており、
それだけでなく、
老少・善悪をとわずどのようなものも信心一つで、
浄土で仏となる徳をそなえています。

 

私が生まれた不思議、
今私が生きている不思議、
しかしそれ以上に、
この私が仏とならせていただく不思議。
地獄におちる道理は分かりますが、
私が仏となる道理は完全に不思議です。
故にこの仏の光を「難思議」と称えます。

 

浄土宗の者は愚者になりて往生す。

 

この身このままが弥陀の救いのめあてである事。
その事は、智慧なき愚か者の私にとって、全くの不思議です。
不明とか不可解ではなく、不思議。
現実にこの不安だらけの凡夫が、不安なき身となった事を通して味わう、
「不思議です、勿体ないことです」という表現なのです。

 

黒い雲から銀の雨が生まれるように、
緑の葉から白き蚕が生まれるように、
泥凡夫が金色の仏とならせていただく、
他力の仏さまの光のはたらき。

 

また『阿弥陀経』にも「不可思議功徳」と六方段にあります。

諸仏が、また私の大切な故人がそのように阿弥陀様をご讃嘆、私たちにお示しくださっていると味わいます。

 

雨中のセミ同様、お念仏申すばかりです。


(おわり)

カテゴリー:法話

投稿日:2026年09月04日